岡田と申します

2024.05.12

4月28日、文化村シネマ。5月3日、横浜シネマジャック&ベティで。
濱口竜介の新作ということで、どっちの日も満席近かった。

木洩れ日の長回しと音楽から始まって、今までの濱口映画とは違う「何か」を感じる。
異様なオープニングカットに心を掴まれていると、突如音楽が終わり次のカットへ変わる。この音楽の断絶がまたも異様さを感じてしまう。


『悪は存在しない』というタイトルの通りにこの映画に悪は存在しない。
ただ、悪ではないのだけど視点が違えば悪に思えてしまうような対立が存在している。
長野県、水挽町に住む巧とその娘の花。水挽町の住民の生活は、水を汲み、薪を割り、森の中の鹿の中を追って、とても慎ましく自然とうまく共存している。
ある日、水挽町にグランピング場を作る計画が出来上がり、巧たち住民は計画元の芸能事務所の社員(高橋と黛)との説明会に参加する。しかし全く彼らの生活や自然に配慮がない計画に動揺を隠せず、怒りをあらわにする。
ここの説明会でのやり取りは濱口節だなあというか、濱口さんの映画だ!と直感的に分かる。
住民とよそ者(芸能事務所)の対立が明確に描かれ、ぱっと見よそ者が悪に見えてしまう構造に、悪、存在してるやんと思ったけれど、ここら辺は濱口竜介さすがだなあと思った。

大人たちの揉める様子を見る花のまなざし。花の純粋無垢な眼差しは、善悪の対立の外側にある。『ミツバチのささやき』のアナトレントのように、映画に出てくる子供はどこまでも純粋で、曇りない眼差しを社会に向ける。

花が行方不明になって、巧と高橋、黛の三人は車に乗って花を探しに行く。この時、グランピング場に鹿が現れることに対しての会話が面白い。巧とよそ者の高橋、黛は全く違う価値観で、鹿が見れるのならそれはそれで見どころになると言う高橋達に、巧は鹿は人間に姿を見せないときっぱりと言い放つ。

そして巧はこれ以上言っても無駄と思ったのか、沈黙する。この突然の沈黙がまた歪を生む。前作の『偶然と想像』や『ドライブマイカー』、初期の『PASSION』、東北三部作はあれだけ会話が重要な要素だったのに、巧は会話を拒絶する。やっぱり、この映画は今までの濱口映画とは違う。なにか濱口さんにとって何か変化があったのだろうか?

音楽が突然終わったり、会話を拒絶して沈黙したり、異様さに溢れるこの映画。ラストはさらに異様だ。

花を探し続ける巧と高橋は、ついに花を見つける。霧が濃くなって視界が悪い。その霧の中に花がいるのを見つけるが、花は撃たれて傷を負った鹿と対峙している。そして突然巧は高橋の首を絞めて気絶させる。倒れている花を抱きかかえて、巧は森の中に消える。鹿はいなくなっていた。

なんだこれ!となるラストだったけど、最初のオープニングカットは抱き抱えられた花の視点なのかもしれない。と思って最初と最後が繋がった。

悪とは一体何だったのか。花は最後死んだのだろうか。村はどうなっていくのか。

それは誰にも分からない。いや、それを考える事は無意味なような気がする。

余談だけど、去年、主演の大美賀さんの監督作『義父養父』を観た。

大美賀さんの演技の不気味さが少し理解できたような気がした。