岡田と申します

2024.05.27

5月24日、ヒュートラ渋谷でニナ・メンケスの特集作品を観る。

職場の先輩がすごくおすすめしていて、この映画の話は岡田が観てからだ!と言われたので観る。

映画がいかに「Male Gaze=男性のまなざし」に満ちているか、そしてそのまなざしが僕らの実生活にどんな影響を与えているのかをニナメンケス自身が沢山の映画を引用しながら解き明かしてく。

引用される映画は、タランティーノ、スコセッシ、ギャロの『バッファロー66』、ヒッチコック、キムギドクに至るまで、本当に多種多様。しかしそれらは一貫して「Male Gaze」があるという。

ニナメンケスは、この「Male Gaze」の要因となる要素を解剖していく。それが物凄く理論的で、分かりやすい。「場面構成」「ライティング(照明)」など様々な観点から解剖していく。

このまなざしには主体と客体があり、女性は必ず客体になるのだという。「場面構成」では、男が女を見ていて、逆に女が男を見ることはない。女性の身体を強調して映し、無意味な尻や胸のクロースアップで観客を釘付けにさせる。ここで『軽蔑』のファーストシーンが引用されるのだけど、ニナメンケス曰く、『軽蔑』は最も分かりやすい例の一つらしい。しかし「Male Gaze」は、もはや男が女を観ているだけではなくなっている。ソフィアコッポラのデビュー作『ロスト・イン・トランスレーション』では、ビル・マーレイの初登場シーンでは顔がはっきり映りどんな表情か、どんな感情の演技かが分かるのに対して、スカーレット・ヨハンソンが初めて映されるシーンはヨハンソンのお尻だけが長々と映される。これには何も読み取れず、ただの女の身体という物体としてしか見られない。「Male Gaze」は女性までもが無意識のうちに刷り込まれている。

「ライティング」でも、男性は立体的な光を当てられるのに対して、女は平面的な光を当てられるという。ここでは『パリ、テキサス』でトラヴィスが風俗店で働く妻のジェーンと電話越しに話す場面が引用されていて、トラヴィスは光と影を使って立体的に映されるが、ジェーンは鏡越しの正面の光しか当てられていない。

ニナメンケスはあくまで事実として過去作られてきた映画(それも傑作と呼ばれるもの)を引用している。批判でも、男性差別でもなく、あくまで客観的に「Male Gaze」によってこれまでの映画は作られてきたという事実を僕らに提示してくる。その事実が映像として残っている以上僕ら(男)はそのことを認めなければいけないと思った。もしかしたら認めない人もいるだろうけど。

でも、じゃあ僕はどういうまなざしを女性に向ければいいのだろう? 僕が男で異性愛者である以上少なからず女性を性的な視線で見てしまう事もある。僕は別に女性を「物」として見てもいないし、女性差別をしている自覚もないのだけど。たぶん無意識の領域にある気がする。無意識だからこそそのまなざしで傷つけてしまっているのだ。無意識の加害なのだ。

前に職場の人に、女性専用車両に乗ってくる男の人の意味が分からないと言われた。そのことを言われるまで僕も無意識に乗っていたし、それが嫌だと思う人がいることに気付きもしなかった。

でも言われてみれば、女性専用と書いてある車両に平気な顔で乗るのって結構やばい事だなと思う。大事なのは、無意識にならないこと。「Male Gaze」を意識することが大事なんだと思う。

性欲は必ずしも悪、タブーではないと思う(これももしかしたら男の乱暴な意見と思われるかもしれない)し、濡れ場が映画の歴史において重要な要素であるとも思う。

一番駄目なのはその表現によって女性が迫害や差別にあうこと。映画が「Male Gaze」によって作られてきた事実を知ってから新しい映画というのは生まれる気がする。

それにこのまなざしで傷つくのは女性だけじゃなくて男もだ。男社会は「強い」とか「悪い」とか「かっこいい」とかそういうものを持つ人が力を持つ。いかに危ない事をするか、いかに女性を物扱いするか、そんなチキンレースに強制的に参加させられる。出来ないやつは蔑まれて馬鹿にされる。高校時代、思い出したくもないけど周りがそういう価値観で辛かった。

事実を提示したニナメンケスは今後映画がどう作られていくべきなのかを言わない。それはこの映画を観た僕達が考えて、少しづつ変えていくしかないのだと思った。

正直この映画を観て「Male Gaze」という言葉を知って、男である僕がどうすればいいのかはまだ答えは出ていないのだけど、考え続けようと思う。